街頭から見た新東京の裏面/夢野久作

関東大震災から1年ほどたった大正13(1924)年の東京について、当時新聞記者であった夢野久作が寄稿したものです。青空文庫にて拝読↓
http://www.aozora.gr.jp/cards/000096/files/940_21952.html
論文の情報探しにネットで検索をかけいていたときに行き当たりました。記事としては長いのですが、震災後の東京の様子がいろいろな視点で描かれていて、個人的には面白かった…のを思い出し紹介。
引用簡単なので(コピペで)一部紹介しますと、たとえばワタシの専門に関わる帝都復興計画による道路工事についてはこんな状態であったと言います。

この工事がちゃんと筋道の立ったもので、将来の都市計画に差支えない処だけやっているものであるかどうかということは、市民にちっとも知られていないらしい。隅田川にも、大きな橋が一つ二つ新しく架けられているようであるが、これとても同様である。

鉄筋コンクリート造、煉瓦造の建築被害についてのこんな文章だとか(帝国ホテルは、F.L.ライトの設計の時代のものです。丸ビルは古い方…。東京駅は現役)。

東京会館は腰を抜かした。
 丸ビルは全癒三ヶ年の重傷を受けた。そのほかのも、腰から向う脛(ずね)のあたりに半死半生の大傷を受けて、往来から中の方がのぞかれるという始末。内外ビルなんぞは、最初の一ユレで八階から地下室までブチ抜けて、数百の生霊をタタキ潰すというウロタエ方であった。
 そのみじめな残骸を見てまわると、吾が日本の「地震鯰」も嘸(さぞ)かし溜飲が下ったろうと思われる痛快さである。
 然しこれは学理ばかりで実際を推し測った最新式の建築ばかりで、そのほかの「地震鯰」を馬鹿にしなかった建築はチャンと残っている。その多くは割り合いに時代の古い、旧式の設計で出来た鉄筋や煉瓦なぞで、海上ビル、東京駅、帝国ホテルその他である。
 その中でも帝国ホテルは極(ごく)新しい方ではあるが、その代り「地震鯰」に敬意を払い過ぎて、地面に四ツ這いに獅噛(しが)み付いた形をしていただけに、ヒビ一つ這入っていない。聞けば技師は米国でもかわり者で、「おれの建築のねうちは今は分らない」と云っていたそうであるが、成る程もうわかった。日本の鯰と親類だったかも知れぬ。

あとはそうだな。80年以上前から東京ってこんなだと思われていたのか、というのとか。夢野久作は九州の人間で、このときは東京へは出張で取材をしていたのだろうな。全体を通して、東京人が書いたらまた別の解釈もあるかもしれないのですが、地方人の見た江戸っ子論など展開しております。

東京に住んだ人は知っているであろう。壁一重向うは赤の他人である。引っ越しソバを配るだけの義理が済めば、あとはどこの馬の骨か牛の糞かといった風である。うっかりすると、借りたおして引っ越しされるような心配があるかと思うと、隣の喧嘩を二階から見ている冷やかな面白さもある。これを極端に云うと、「人を見たら泥棒」式で、すべてのつき合いが何となく現金式である。そこが又東京の住まいよいところで、同時に住みにくいところともなっている。これは東京が江戸の昔から諸国人の集まりであるのに原因していること云う迄もない。