幸田文 (ちくま日本文学005)

去年の暮れくらいから出ている、筑摩の文庫版文学全集の、幸田文。ちょうど第一期5冊が同時に出たときに本屋で平積みになっていたので、この幸田文内田百けんを買ってたのでした。積まれてましたが…。
前半に短編を幾つかと、後半は随筆中心の盛りだくさんな一冊。読んだことのないものばかりで、そしてこの方の文章はとても好きなので、ゆっくり味わいながら読みました。父と継母との思い出には読むだけで胸苦しくなるせつないものもありましたが、それより印象的であったのはやはり露伴の放った言葉の深さ、鋭さ、即妙さ。幼かった文が、そこまで一言一句覚えているはずも、と思うのだけれど、いやそれもさもありなん、と翻る、印象深かったり、もしくはひどく痛いひとことであるなあと。
なにか個人的に心にささってしまったくだりは、以下(原文ママ)。

父は小さいときに犬が欲しくて一しょう懸命に願って、世話一切ご迷惑相かけまじくと誓約し、ようようむく犬一匹の主人になった。ともしいお小遣いをためては、こまぎれを買ってやる。おばあさんは昔風だから二足四足は大嫌い、屋根の下で煮ることをゆるさないから、専用の穴あき鍋と毀れ七輪を外に持ちだして、竹の皮を明けると、こはそもいかに豚の鼻の頭が載っかっている。はすかいに切られて、粗毛が五六本くっついて、ぽこんぽこんと二ツ穴があいて。いかに何でも鼻を煮ることはいやなので、火箸でつまんで石の上へ置いて眺めると、はかなく悲しかったという。おかしくなかったかと聞いたら、「おかしいもんか。おまえはどうも桂馬筋に感情が動くようだから、人づきあいはよほど気をつけろ」と云われた。(「みそっかす」)

はかなく悲しかった子供時代の露伴の気持ちも、たぶんわかる。でも、それをおかしくなかったか、と聞いてしまう文の気持ちもすごくわかる自分なのである。「おまえは桂馬筋に感情が動くようだから気をつけろ」と云う露伴のひとことが、あらゆることに関する自分への指摘に解釈出来て、ああそうなんだ、わたしは気づかずにひとの感情を逆撫でしたり、違う解釈をして傷つけてしまうことがあるのだよと思い出されて、なかなかに沁みました。そうか。桂馬筋、なるほど、と。この歳になって自覚している場合ではないことだとも思うけれど。

幸田文  (ちくま日本文学 5)

幸田文 (ちくま日本文学 5)